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CONCEPT -Think&Talk-|学び続け、進化し続けるビジネスマンに向けて、さまざまな業界のトップリーダー たちと仕事観を語らう。

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目の前の人を喜ばせることに情熱をかたむけた人生―小成富貴子さん

【第1話】一枚のチラシから変わり始めた人生
2018年10月04日
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小成さんとの出会いは、ご著書「究極の育て方」の出版記念パーティ講演会を拝聴させていただいたことです。
著書を読んだ時にとても感動し、どんな方が書かれたのか、お会いしたくなったのです。講演会のお話はとても面白く、
優しいお人柄がにじみ出ていました。本にひとりひとりに合った言葉を寄せてサインしてくださり一気にファンになりました。
ご家族のために、医院のために、惜しみない愛情を注ぐ小成さんの世界、全3回でお届けします。

小成富貴子

有限会社ミネルバカンパニー
代表取締役

小成富貴子さん

https://www.miffi.net/で情報配信中

-Profile-


#1 一枚のチラシから変わり始めた人生
#2 業界で私が素人であることが私の一番の強み
#3 これからは女性のアレンジ能力が求められる時代

1989年上智大学外国語学部イスパニア語学科卒
大学在学中1年間マドリッド自治大学外国人コースに留学。大学卒業後23歳で結婚。22年間、家事、家業、子育てと家族のために尽くす。
2011年日本で唯一スペイン商材に特化した輸入セレクトショップ「アイレ」を表参道に開店。2017年に実店舗は閉店。現在はオンラインストアのみ継続中。
スペイン文化を日本に紹介する一方、着物や和食など、日本文化をスペインに広める活動にも力を注ぐ。
また、二人の息子たちのユニークな子育て法が話題となり、2017年3月19日に初の著書『究極の育て方』を出版。
現在、クリニック経営、眼鏡店経営、スペイン商材輸入、セレクトショップ運営、スペイン料理講師、スペインワイン講師、グローバル教育講師など多方面で活躍中。ミッフィーの愛称で親しまれる。

著書:KKベストセラーズ
「イェール+東大、国立医学部に2人息子を合格させた母が考える 究極の育て方」
共著:誠文堂新光社
「バスク料理大全」

 

人生のサマリーを教えてください。ご出身はどちらですか?

北海道で生まれ、3歳で関東に出てきました。当時父は北大で医者をしていて、母も札幌の人でした。叔父が町田で歯科を開業しており、その叔父の紹介で当時ベッドタウンとして開けつつあった町田で開業することを決めました。
父はその後44年間町田で小児科の開業医をしていました。ですから、私も小学校までは町田で育ちました。中学高校は不二聖心という静岡の学校で、宿舎生活をしておりました。

なぜ静岡の不二聖心を選ばれたのですか?

友達だけの生活というのに対する憧れと、自分のことを誰も知らないところで、新しい自分を作ってみたかったからです。

10歳11歳でそう思われたわけですか?

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そうですね。6年生の時にそう思いました。実は従姉が通っていたので、そういう学校があることは知っていましたし、従姉の姿を見て楽しそうだなというのがありました。
それから、私は引っ込み思案で、明るくて元気でみんなの人気者の妹や友人に強く憧れていました。私もそんなリーダー的な存在になりたいと思い、それを実現するためには誰も今の自分を知らない世界に飛び出してみようと考え、この学校を選びました。

では、小学生の頃、何かコンプレックスをお持ちだったのですか?

小学校高学年の頃は自分の容姿や性格にコンプレックスがありましたね。例えば、〇〇ちゃんは誰が好きみたいな話になったとき「私なんて全然可愛くないし、おとなしくて地味だから魅力がないだろうな」と気後れしていました。

静岡の中学に入学されて、ご自身は変わられたのですか?

はい。自分の力で変えようとしました。小学校の頃は運動神経が切れているのではないかと思うくらい運動が苦手でしたが、あえて体育委員に立候補しました。「私は体育が好きな活発な子なのです」という新しいキャラクターを作って自分を演出しました。相変わらず運動は苦手でしたが、自分の殻を打ち破ろうと頑張っていましたね。

部活動はされたのですか?

中学では器械体操部に入りました。丁度、器械体操部に着任された新体操の先生がいらして、鮮やかなパフォーマンスに憧れて選びました。私は小学校6年間バレエを習っていて、踊ることが大好きだったのです。3年生の時、厳しい先生がみんなの前で私を褒めてくださったという人生で多分初めての成功体験をしたこともあり、何かバレエに近いことをやりたかったのです。

確かに新体操、憧れますね。

高校は化学クラブに所属しました。医学部に入りたかったので共通一次試験(現在のセンター試験)に向けて理科実験を勉強したくて選びました。そこは、学校で一番怖い先生が顧問のクラブでしたので人気がなく、高1は私1名、高21名、高356名という小規模でした。そんな恐ろしいところに好き好んで入る生徒は変人だと思われていましたね(笑)。でも、国立大学を目指す志の高い先輩から学ぶことも多かったですし、その怖い先生にもとても可愛がってもらっていて、実際は楽しいクラブ活動でした。3年生の時は部長を務めました。

なぜ可愛がってもらえたのですか?

一生懸命頑張っていれば認めてくださる先生でした。それと今考えると、この頃から尖っている人の気持ちを和らげることが得意だったのかもしれません。そっぽを向いている方に、いつの間にか私の方を見てもらえるということがよくありました。

人生において、3つのことをあきらめたとお聞きしたことがあるのですが、何をあきらめたのですか?

進学、就職、恋愛結婚です。
まずは進学ですが、ずっと医学部に行きたかったのに、祖母と父親に大反対されていました。勉強をしっかりやればいつか認めてもらえるだろうと、本当に努力して高い成績を修めましたが、最後まで許してもらえませんでした。女医は結局子育てで仕事を辞める事例が多く、税金の無駄遣いだと父に強く反対されて本当に悲しかったです。
授業料も出してもらえないと言われ、仕方なく次に好きだった語学を学ぶことに方向転換しました。せっかく学ぶのならば、世界ではメジャーだけれど日本ではまだ着目されていない、マイナーな言語にしようと考えました。色々図書館で探して、スペイン語に出会いました。スペイン語は国連の公用語の一つでもあり、当時世界で一番話者の多い言語だったのです。そして、スペイン語学科に入学し、大学3年生の夏から4年生の夏まで1年間スペイン首都のマドリッド自治大学に留学しました。そして、学んだスペイン語を活かして就職したいと思いましたが、残念ながらこれも祖父母や両親に大反対されました。
3つ目は当時大好きな人がいて、その人と結婚したかったのにこれも反対されました。祖母に23歳までに次男坊の医者と結婚するように決められ、20歳の頃から条件に合う方とどんどんお見合いをさせられました。結局一番初めにお見合いをした人と結婚しました。
これらが人生で諦めてきた3つのことです。

ご主人に出会えてよかったですね。

そうですね。私を溺愛していた祖母が見つけてきてくれた人でした。祖母のお隣さんで、回覧板を回しに行ったついでに主人の母と立ち話をして決まったお見合いでした(笑)。主人は20歳の時の初めてのお見合い相手でした。その後スペイン行きが決まっていましたし、まだ若くて自分の心の整理がつかずお断りしたため、一度そのお話は流れました。帰国後もたくさんの方にお目にかかりましたが、最初に会った主人が一番好印象だったことが心に引っ掛かり、祖母の用事で札幌に行く時に思い切って再会したのです。
23歳で結婚し、生まれた地である北海道に嫁ぎました。
スペインに比べれば海は渡りますが日本国内でもあり、あまり寂しいとも思わず気楽な気持ちでした。ただ、実際に暮らしてみると、東京に比べ演劇や美術館など文化的に楽しめるところがとても少ない上、フランス語やラテン語、茶道などの習い事に行っても話の合う同世代の友達もなかなかできず、日々が虚しく、3ヶ月くらいで飽きてしまいました。でも主人が一人前になるまでは、北海道に10年ほどいなくてはなりません。この期間を無駄にしないよう有効に過ごそうと考え、北海道の大自然の中で子育てをしようと思い立ちました。そうすれば、東京に帰る頃にはある程度大きくなっていて、少し手が離れているのじゃないかなと思ったのです。そして、24歳で長男、25歳で次男を出産しました。この決断はとてもよかったです。

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ご著書「イェール+東大、国立医学部に2人息子を合格させた母が考える 究極の育て方」について教えてください。そもそもなぜこの本を出されたのですか?

これは不思議なご縁がどんどん繋がり、思いがけない方向に進んだ結果なのです。
当時私はスペイン雑貨のお店を経営しておりました。ある時店長に「こんなところでスペイン雑貨を売っているより、オーナーの素晴らしい子育てについて講演活動などした方がいいのではないか」と言われ、私を宣伝するチラシを作ってみたと手渡されました。たまたまそのチラシが出来上がった日に、上智の卒業生で当時AERAの編集長をしていた女性の講演会に行ったのです。同期でしたが接点は無く学生時代直接は存じ上げませんでした。でも同じ時代に同じキャンパスで過ごした女性が、全然違う世界で活躍なさって、違う人生を歩んでいることに興味を持ち、講演会に足を運びました。お話の中で、ご自身も10歳くらいのお子さんがいらして、これからはグローバル人材が必要とされる時代になってくるし、そういう観点から子育てにスポットを当てた特集も組んでみたいと語られたのです。
私の当時の名刺は教育とは一切関係ないスペイン一色だったのですが、名刺交換する際に「実はこういう教育もやっています」といって、その出来たばかりのたった一枚しかないチラシをお渡ししました。8か月後AERAの編集者から取材の依頼が来ました。その特集の見開きの片側が私、もう片側はお子さんを4人東大に入学させた有名な佐藤ママでした。

右が佐藤さんで左が小成さんだったのですか?

はい、そうです。AERAに出て半年くらいして、突然フジテレビのバイキングの方から連絡があり、生放送のテレビ番組に出演しないかという依頼が入りました。「天才を育てたママスペシャル」という番組で、私のほかにもアグネスチャンさんや先ほどの佐藤さんと一緒に出演しました。テレビに出演してからまた半年ほどして、突然KKベストセラーズの方が訪ねていらして「テレビもAERAも見ました。小成さんも本を書きませんか」というお話をいただき出版することとなりました。
テレビや雑誌にたくさん出ても、ブログで毎日綴っていても、ご自身で本を出したいと出版社に持ち込んでも、なかなか出版に至らない方が多い中で、私はとても幸運でした。わらしべ長者ストーリーとよんでいます(笑)。

あの本を書くのに、どのくらいの時間がかかったのですか?

3か月くらいです。シンプルな本ですし、私は記憶力が悪いので、そんなに思い出せなくて(笑)息子はもう既に大きくなっていましたからね。

読ませていただいて、よくこんなに昔のことを覚えていらっしゃるなと思いましたよ。
この本はどんな方に向けて、どんな思いで書かれたのですか?

今、お子さんを育てている方、これから育てる方に向けて書いたつもりです。また、社会人としてきちんとした最低限の礼儀があって、挨拶ができる、そういう会社での新人教育を担当なさっている方にも役に立つという感想もよく寄せられます。
私は自分の子育てがそんなに特別なものだとは思っていません。ただ、教育する上で大切にしてきたことの一つは、人間としてどう在るべきかということです。人は一人では生きていけません。常に誰かと関わって生きていくときに、人として愛されて、そして迷惑をかけない。そういう子に育てたいと思いました。
ですから、「頭の良い子を育てる」というような意図はありませんでした。そもそも私の子育てはそういう意図を持っていませんし、それよりは人としてどう在るかということを伝えたかったのです。

本の内容を簡単にご紹介いただけますか?

この本は、私が24歳で考えた子育てへの思いがベースとなっています。内容は3つに分かれていて、1つ目はグローバルコミュニケーション力の育て方、2つ目は英語力の育て方、3つ目が家庭で一緒にできる勉強法です。
24歳ですから、今思うと、子どもが子どもを育てるような状態でした。その私の子育てについて、実際子どもたちがどう思っていたのかとても興味深かったので、彼らにもインタビューをして載せました。著者の意見だけの子育て本が多い中、親の思いと子どもの思いの両方の視点で語られるのは、新しい試みなのではないでしょうか。
私には、二人の息子がいます。10歳の時から自我が確立していて、精神年齢が高く、自分の決めた道に向けて努力を続け自ら進んでいく長男。長男と比べるといい意味で子どもらしく、無邪気で、自分の進む道に目覚めるのに時間のかかった次男。次男は小学校の頃の偏差値は35くらい。18歳で将来の目標が定まってから爆発的に成長し、国立医学部へ入学しました。小学生のころは全く勉強をしませんでしたが、それなのに中学受験をさせて失敗しました。次男の偏差値と私の入れたい学校の偏差値は明らかに違うのに、なぜか、私は自分の理想の学校に入れることに一生懸命になってしまいました。
二人の子育てを通して、全く性質の違う二人の子育てを体験することができました。私だからこそ伝えることができる内容の本になったと思っています。

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その全く性質の違う二人を育てているうえで、どういうことが伝えられると思われましたか?

「長男の話だけで、講演をしたらどうか」と言われ、実際にしたこともありますが、自分の中で何か片手落ちというか、説得力に欠けるのです。長男の話だけだと「それは特別に優秀な子」ということで終わってしまう。次男のようにたとえ最初は偏差値が低くても、本人がやる気になったらここまでできるという話は、希望の光として皆様の心に響くのではと思っています。次男を育てるのはすごく大変でした。反抗期も凄まじかったですし、警察から電話もかかってきたこともあります(笑)。でも、次男は私の人生に彩りを与えてくれる存在です。
もし長男しかいなければ、私は次男のようなタイプの子を理解することも、教育について語ることもできなかったのではないかと思います。正反対の二人を育てたことで、いろいろなパターンについて語れるようになりました。

ちなみにご次男は、どうやってやる気になられたのですか?

私達はずっと彼が自分で気付くまで待っていました。彼が自分の人生について真剣に考えるようになったのは18歳でした。高校の卒業式の日に「僕は医学部に行きたいからこれから真面目に勉強します」と宣言した姿は忘れられないですね。
親である私達は、次男が中学を卒業する時には、中卒になれたと喜び、高校を卒業する時は、中退せずに卒業できたと、一つステップあがれる度に喜んでいました。大学受験はすべて落ちていたのですが、私たち親は元気に高校を卒業できたことで十分感動していました。後は彼の人生ですから、どういう道に進んでも、自分が悔いのないように生きていければいいと思っているところに、そのやる気宣言があり、そこから彼は死に物狂いで勉強を始めました。その集中力は今も続いています。彼の大学は入学したときに学年に100人くらいいたのですが、すでにその100人の仲間はかなり減っています。この後も、卒業試験に受からなければ留年や辞める人もいるでしょうし、最終的には何人残ることやら。

医学部の国家試験って、ほぼ皆さん受かるじゃないですか。それはそういうからくりなのですか!

国家試験に至るまでに、ものすごく落とされます。進級試験が厳しくて、結構留年させられます。毎年進級できずに辞めていってしまう人もいるようです。ストレートに進級できていることは、普通といえば普通なのですが、やはり誇らしいことだと思っています。日本全国の医学部4年生が受ける試験があるのですが、19位になりました。それには本当に驚きましたし、すごいなと思いました。親に言われて勉強していたのでは、ここまでにはなれなかっただろうと思います。

(撮影協力 本多佳子)

 

 

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