介護業界にイノベーションを起こしたい―三浦祐一さん
三浦さんとの出会いは、共通の知人との食事会でした。美味しい焼き肉屋さんを巡ったり、ゴルフにご一緒させていただいたりと楽しい時間を過ごさせていただきました。その際、時折話される介護事業への思いや社会的意義に胸が熱くなりました。
介護される側の気持ちを第一に考える施設を作られた三浦さんに、成功の秘訣、その思いをお聞きしました。
社会福祉法人天佑
理事長
三浦祐一さん
1963年生まれ。東邦大学大橋病院医事課、医療法人友康会(行徳中央病院・埼玉飯能病院)理事。事務局長、大手医療福祉グループの経営理事、㈱メディカルクリエイトのコンサルティング業務を経て、2011年、社会福祉法人天佑を設立。2012年3月より特別養護老人ホーム アンミッコを開設。元全日本病院協会診療報酬委員。 自由が丘に、フレンチビストロをオープン、南フランスの料理とワインを楽しめるお店として人気を集めている。
#1 いつか起業することを夢見ていた
#2 自分らしく人生最期の時を迎える場所をつくりたい
#3 なりたい自分に近づくためにお金を使う
三浦さんの人生のサマリーを教えてください。
大学を卒業する時に、実家が病院を経営していたので、その仕事を手伝うよう言われましたが、当時人の生死にかかわる仕事は、私には重たすぎてしたくなかったのです。ちょうどバブル期だったこともあり、もう少し気軽な、ファッションとか、旅行とか、人の生死に関係のない世界で働きたいと思いました。その中でもファッション産業やアパレルに興味があったので、靴などを中心としたアパレルメーカーのモード・エ・ジャコモに就職しました。
こちらで何年働かれたのですか?
4年です。その後ようやく、実家の仕事を手伝う決心をしたのですが、そのまま帰っても何もわからないので、大学病院で2年間医療事務の修行をしました。そして28歳の時に実家の病院に戻り、そこから14年間病院の経営をしました。
28歳の時にすぐに病院を継がれたのですか?
そうです。父はとても変わった人だったので、50歳の時に親戚一同を集めて、「もう仕事やめます」って宣言しました(笑)。
ですから、私が継いでからは、「もう好きにやってくれ」ということでした。当時は法制度の問題で、医師でないと理事長にはなれなかったので、経営理事として千葉と埼玉と2つの病院をみていました。
お父様もお医者様ではなかったのですか?
はい、違います。
お父様はなぜこの病院を経営されたのですか?
それがね、実はよくわからないんですよ(笑)。始めたのは私が17歳くらいの時です。実はそれまでは全く畑違いの印刷業をしていました。
昔は、印刷の工場があって、中卒や高卒の工員達が住み込みで働いていました。
印刷屋さんを畳んで突然病院を始められたのですか?
そうです。驚きますよね。この頃、世の中にワープロなどが出始めて、印刷業も将来的には斜陽だろうと判断したのだと思います。
40年も前にそうご判断されたのですね。先見の明がおありですね。
お父様は、印刷業から病院経営を始めて、わりとすぐにリタイアされたということですか?
はい。2件病院を立ち上げた後、リタイアしました。辞めたいと思ったら辞めて、そのまま暮らせるのだから、素敵な人生だなと思います。
三浦さんはご長男ですか?
はい。弟が3人います。男ばかりの4人兄弟で、家には住み込みの工員達が10人くらいいて、それはそれは賑やかでした。「3丁目の夕日」みたいでしたよ(笑)
父は秋田出身なんです。ですから秋田からいっぱい呼ぶのですよ。そして、私は父と一緒に上野駅までよく迎えに行きいました。父は、住み込みで雇った中卒の子達には、「高校は卒業しておけ」と定時制に通わせていました。
それはまさにリアル「3丁目の夕日」ですね。その時の雰囲気が感じられます。
14年間病院を経営された後、どうされたのですか?
病院を2件とも建て替え終えた後、ここでの私の役目は終わったかなと思い始めました。ちょうどその頃、介護保険の制度ができたので、興味のあった介護の世界に足を踏み入れました。全国展開しているグループの本部長として就職し、3年間、介護事業を修業しました。その会社は当時4000人くらい従業員がいる企業で、全部の施設や財務状況も見ることができました。新規の立ち上げなど全部経験したので、そこからすぐに起業して、社会福祉法人や、特別養護老人ホームを作ろうと思ったのですが、資金がなかったのです。ですから4年間コンサル業をしながら準備をしました。
どういうコンサルをされていたのですか?
ヘルスケアに特化したコンサルタントの会社に就職しました。ですから病院を辞めてから今の会社を作るまで、サラリーマン7年やりましたよ。
そうだったのですね。その次がこちらのアンミッコさんですか?
はい。やりたかったことをようやくできたのが49歳の時です。
こちらはどんなところにこだわって始められたのですか?
この業界に参入する時に、イノベーションを起こしたいという思いがありました。最高のハードと最高のソフトを作りたいと思いました。特に特別養護老人ホームは印象が悪いのでそれを取っ払って、新しい概念でアッと言わせたいという思いがありました。
具体的には、最高のハードと最高のソフトとはどういうものですか?
最高のハードはこの建物です。デザイン性や居住性です。ソフト面で取り組んでいることは、大きく3つあります。1つ目は食事へのこだわり。2つ目は教育制度、3つ目はお看取りです。1つ目の食事は柔らかさを変えて3段階ご用意しています。見た目も味も全く同じもので柔らかさを変えるという手間をかけています。2つ目は教育制度です。介護士教育の中に、ラダー制度を取り入れています。ラダーとは梯子のことです。初級、中級、上級と昇っていくのですが、それの介護士版というのをオリジナルで作り、6年間続けています。ですから、スタッフには毎月2時間の研修を義務付けています。
これはどなたが研修されるのですか?
今は、3分の1くらいは内部講師で、残りは外部講師です。
三浦さんも講師をされるのですか?
もちろんです。
お看取りとはどういうことに力を入れていらっしゃるのですか?
ここは「お看取りをするホーム」です。そしてナラティブなホームを目指しています。ナラティブというのは直訳すると物語です。人の人生は壮大な物語だと思っていて、ここで暮らす最後の数年間は、物語の最終章にあたる部分です。最終章をハッピーエンドで終わらせることが我々の使命です。そのためには第1章の生い立ちからひも解いていく必要があります。その方が、どういうところで生まれて、どう育って、どんな家族がいて、どんなお仕事をされていて、どんな趣味があって、何が好きで何が嫌いでということをすべてお聞きした上で、そこからケアがスタートします。
それは入居する前にお聞きするのですか?
入居前にお聞きする情報もありますし、入ってからお聞きすることもあります。ご本人からのお話もあれば、ご家族からお話をお聞きすることもあります。前にいた病院や施設だったり、主治医や、いろいろな人から情報を集めて、この人はどういう人かというのがわかってからケアがスタートします。ですから、入居した当日に、人生の最後を病院で延命治療を希望するのか、ナチュラルに、ここでお看取りまでを希望するのかをお聞きします。
どのくらいの割合でどちらを選ばれるのですか?
9割以上の方がナチュラルなお看取りを選ばれます。
先日、「痛くない死に方」という本を読んだのですが、ご存知ですか?
その本には、病院で亡くなる方は身体が10キロくらい重たくなると書かれていました。なぜかというと、点滴付けになるからと。これに私は衝撃を受けました。その治療を皆が希望するからそうなる。みんな最後はナチュラルに逝くことを望んでいるのに、家族が病院に運び込むので、そうなってしまうという話でした。
昔は、日本でも、自宅で看取るというのが主流でした。食べれたら食べる、飲めるものだけ飲む、それもできなくなったらそのまま床にふせ、医者が時々来るというものでした。病院で死ぬというのが始まったのは、皆保険制度ができ、老人の無償化があり、病院がたくさん増えてきたことから、病院で死ぬということが始まったと思います。
それは大体いつ頃ですか?
国民皆保険が施行されたのは1961年(昭和36年)です。オリンピックの後から病院もどんどん出来上がっていきましたからね。人の死のイメージが今はもう出来上がっています。病院で家族が見守る中、モニターがもう振れなくなる、フラットになった波形を見て医師が、「ご臨終です」という。それが刷り込まれていますね。今はそれが主流ですから、死に目に会えないのは不幸なことになってしまいました。
昔は死に目に会えないことは不幸ではなかったのですか?
そうですね。「チチキトク」と電報が届いて、すぐに帰っても死に目に会えなかったり、間に合っても、医療処置をしているわけではないので、ただ寝ている。そして翌朝起きたら亡くなっていたというのもよくあったことです。死に際に会えないということは特別なことではなかったと思います。
(撮影協力 本多佳子)
#1 いつか起業することを夢見ていた
#2 自分らしく人生最期の時を迎える場所をつくりたい
#3 なりたい自分に近づくためにお金を使う