このページを編集する

CONCEPT -Think&Talk-|学び続け、進化し続けるビジネスマンに向けて、さまざまな業界のトップリーダー たちと仕事観を語らう。

CONTACT

 2020年4月  

SunMonTueWedThuFriSat
1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930

学者の特権~“面白い”の追求―入山 章栄さん

【第1話】まったく優等生ではなかった学生時代
2020年04月08日
iriyama1-TOP.jpg
入山先生との出会いは、日経ビジネス経営塾の1期生として参加した講義でした。テレビや雑誌などメディアにもたくさん出られていた入山先生の講義は、難しいことをわかりやすくフレンドリーに、そして受講生である私達に敬意を払ってお話しくださったのがとても印象的でした。決して偉ぶらず、親しみ深く、多くの人を魅了する入山先生の魅力に迫ります。全3回お楽しみください。

 

入山 章栄

早稲田大学大学院(ビジネススクール)教授
専門分野:経営学

入山 章栄さん

HP:https://www.waseda.jp/fcom/wbs/faculty-jp/6072

 

慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。
三菱総合研究所で主に自動車メーカーや国内外政府機関へのコンサルティング業務に従事した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。
同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクール助教授。
2013年から現職。Strategic Management Journalなど国際的な主要経営学術誌に論文を発表している。
近著に「世界標準の経営理論」(2019年、ダイヤモンド社)がある。

 

入山先生ご出身はどちらですか?

 

生まれも育ちも東京です。調布市で生まれて、3歳から練馬区育ちです。
小学校から国立大学の付属でした。幼稚園の友達がみんなその小学校を皆受けるというから、とりあえず受けてみようとチャレンジしたら、運よく受かってしまい、東京学芸大付属大泉小学校に入学しました。でもお受験の時は、本当に嫌味でもなんでもなく全く勉強していなくて、実は当時は「どっちが右か左か」もわかってなかったんです。入学してからも勉強が全くできなくて、、、、しかも学芸大付属はエスカレーター式ではなく、中学へも高校へも一応受験があるのです。中学受験はさほど難しくはなかったのですが、高校への内部受験では、3分の1くらいしか進めないのです。小学生の時は全く勉強していませんでしたから、いつも成績はギリギリでした。何とかギリギリで中学に入り、その頃から近所の個人塾に通ってそれなりに勉強するようになりました。それで中学2年くらいから、模試の結果とかが突如良くなって、急に勉強ができるようになりましたね。

 

何か部活動はされていたのですか?

 

中学時代は野球部、高校時代はハンドボール部に入っていました。中学の野球部ではキャプテンも務めました。でも、個人的な意見ですが、野球やサッカーというのはメジャー過ぎて実は報われないことも多いスポーツだと思います。なぜならメジャーなので、競争相手も多く、私のような軟弱な国立大学の付属中学校ではどんなに頑張っても1回戦勝てるかどうかだったのです。一生懸命練習しても勝利で報われないのは、不毛だなと思っていました。これがマイナースポーツならば勝てるのではないかと考え、高校はハンドボール部を選んだんです。実際、学芸大学附属高校のハンドボール部は過去東京都でベスト8やベスト16に入った実績があったからです。高校時代2年半、一生懸命練習に明け暮れて、2年の秋の大会で都ベスト16に入れました。そして、3年生のインターハイ予選で負けると、そこで燃え尽きてしまい学校に行かなくなりました(笑)

 

学校に行かずに何をしていらしたのですか?

 

高校3年の後半は、あまり学校へ行きませんでしたね。母は放任でとても大らかな人でしたので、私は朝からゆっくりと風呂に入り、10時ごろ家を出てとりあえず学校に向かうのですが、通学路にとにかく誘惑が多かったのです。私の実家は練馬で、そこから池袋、新宿、渋谷を通り、東横線で代官山、自由が丘を通過して学芸大学駅へ向かうので、いくらでも遊べる場所がありました(笑)。今だから言えますが、私はよく学校をサボって渋谷や高田馬場のフリー雀荘に行っていました。あるいは、そういった誘惑を振り切ってようやく高校にたどり着いても、高校では3年生の教室が3階にあったので、そこにたどり着く前に階段の踊り場で友達が待ち構えているのです。「お!入山が来た、じゃあ行こうぜ」と言われて、教室に入ることなくUターンして結局渋谷の雀荘に行っていました(笑)当時は本当に勉強していなくて、授業をさぼった数は実は当時学年1位でした(笑)。

iriyama1-2

 

時代ですね。今の若者はちゃんと勉強する人が多い印象です。

 

そんな状態でしたので、当然いきなり大学受験してもどこにも受からなくて一浪しました。浪人時代、ただ進学校出身というだけで駿台予備校の「東大スーパーコース」というのに入れたのですが、全然勉強しないものですから、一番下のクラスの最下位あたりをずっとさまよっていました。それでも何とか、英語と社会の二科目ですむ慶應大学の経済学部に気合と運で受かったのです。大学に入ったら、さあ慶應デビューということで、当然のように公式テニスサークルに入ろうとしたのですが、その華やかな雰囲気とコール飲み文化についていけずに、一瞬で辞めてしまいました。結局入ったのは男しかいない、さえない野球サークル(笑)。結局、1、2年の頃は大学にはほとんど行かず、バイトと雀荘ばかり行っていたように思います。

 

入山先生は今は「経営学」の研究者ですが、もともともは慶應で「経済学」を勉強されていました。本気で経済学を学ぼうと思われたのは、いつくらいからですか?

 

慶應の経済は3年生からゼミに入るのですが、私が3年生になり、参加したゼミの説明会で、私の恩師となる木村福成先生と出会ったのです。当時35歳くらいで、それまでバリバリのニューヨーク州立大学の助教授だった木村先生は、まさに日本に帰ってきた直後でした。世界の経済学!という感じだったんですよ。それがかっこいいなと思ったのです。何か魅せられて、木村先生のゼミに入ることを決めました。そこで一生懸命勉強を始め、そのまま大学院まで進みました。経済学で大学院に行ったので、最初は経済学者になるか、望むらくはワシントンの世界銀行でも行って発展途上国の経済分野のエコノミストになるのも面白いかなと思っていました。そんな色々な思いで修士課程に進んだのですが、そこでなんと急にモチベーションが落ちたのです。理由はわからないのですが、経済学への情熱が突如下がってしまったのです。

 

それは修士1年の時ですか?

 

そうです。修士1年の時は結構辛い時期でした。経済学でのモチベーションを突如失い、どうしていいかわからずにいました。当たり前ですが、「やる気がない大学院生」というのは、不幸というか、最悪です。それなら就職しておけばよかったってね。結局、木村先生や別の恩師にも恵まれて、何とかその時には心理的に持ち直しました。それでも「このまま博士号を取って経済学の学者になることもないな」と思い、就職することにしたのです。

大学院ご卒業後に三菱総研にご入社されたのですね。

 

三菱総研に入社し配属された部署では、自動車調査や海外調査が専門の部署に配属されました。当時、「自動車調査と言えば三菱総研」という時代で、私は経済予測とかのエコノミストの仕事に加えて、自動車調査・コンサルの仕事もやるようになりました。当時のトヨタとホンダを始め、カルロスゴーン氏が来る前と後の日産の中も見ています。それはとても面白かったですね。当時の古典的な経済学では「生産関数」というのがあり、1つの業界の生産パターンというのはほぼ同じという前提を置いたりするのですが、それが現実は企業によりまるで違うのですよ。とても社内の統率の取れてるトヨタ、組織はバラバラなのになぜか結果は出すホンダ、そしてカルロスゴーン氏が来てそれまで官僚的だったのが、急にハイパフォーマンス組織に変わっていく日産、といった世界を目の当たりにし、それがとても面白かったのです。

iriyama1-3.jpg

 

そこで経営に興味を持たれて海外に行かれたのですか?

 

はい、そこで経営・ビジネスに興味を持ち始めました。とはいえ、すぐに「経営学者になろう」というものではなかったんですよ。実は、三菱総研2年目の時には、私は会社をやめてアメリカ留学を決めていたのですが、その理由は立派なものではなく、とにかく「海外への憧れ」が先でした。毎月のように海外出張をする先輩方を見ながら、どうやったらもっと頻繁に海外に行けるかなと考えたときに、「あ、出張ではなくて、海外に住めばいいんだ」と思ったのです。

 

就職されて、2年目ですか?

 

そうです。PHD博士号に興味があったので、「だったらアメリカの大学で経済学で博士号を目指そう。そうすればそれを口実にアメリカに住める」と思いつき、その準備のためにまず、実家を出て独立しました。なぜなら、その準備を秘密裏に進めたかったからです。ある日実家で食事を終えて、「お母さん、僕は来週家を出ます」と宣言したら、母はショックで寝込んでしまいました(笑)。そして練馬を離れて中野坂上で1人暮らしを始め、留学専門の予備校に週末に通い、アメリカの経済学の博士課程に行く受験勉強をこっそりと開始したのです。そして1年間頑張って準備して受験した結果、3校からオファーをいただきました。ですがなんと、この結果が出てから、「オレのやりたい学問は本当に経済学でいいのだろうか?」と疑問を持ち始めたのです。今思えば、修士課程で経済学へのモチベーションを失ったことを引きずっていたのでしょう。いざ受かると「本当に経済学でいいんだっけ?経営学の方が俺には面白くない?」とますます思い始めました。そこで、当時の上司には、受かったら仕事を辞める話をしていましたし、アメリカの大学院への推薦状も書いてもらっていたのですが、「来年に経営学で博士課程を受け直したいので、もう1年会社に居させてください」とお願いしたのです。

 

それはとても寛容な上司ですね。

 

はい、とても理解あるいい上司でした。そして、勉強をし直したのですが、実は後でわかったのですが、アメリカの経営学の博士課程へ入るのは、経済学の博士課程に入る以上に難しいのです。理由は簡単で、経営学の方がビジネスに関連する分、プログラムにお金がある。なので、学生もお金があるプログラムに行きたいし、大学院側も入学者を絞って、少ない学生に多額のお金をかけて「投資」する傾向があるのです。

 

そうなのですか!それは存じませんでした。

 

普通の人は知らないことです。実際、アメリカで経営学の博士課程に入るには、TOEFLはほぼ満点が必要です。GREやGMATの要求スコアもものすごく高い。例えば僕はTOEFLはほぼ満点でしたが、それでもその年は全て落ちたのです。その時は茫然としましたね。呆然としすぎて、会社をサボって皇居のお堀の周りを一人でグルグル何周も歩き廻っていました(笑)。でももう一度チャレンジしようと思い、また上司に「もう1年居させてください」とお願いしました。そして翌年ようやくピッツバーグ大学の経営大学院の博士課程に受かり、留学することになったのです。

 

ピッツバーグ大学が第一志望だったのですか?

 

いいえ、実は一番行きたかったのは、カナダのトロント大学でした。ですが、トロント大学は残念ながら補欠でした。ピッツバーグ大学は一番行きたいところではありませんでしたが、webサイトで面白そうな教授が居たのです。実はその方は後に私の人生の恩師になるので、結果的にはピッツバーグに行って本当に良かったです。

 

そこからアメリカでの生活が始まるのですね。

 

はい。でも留学当初は、そもそも人見知りなうえに、ハイレベルな英語での会話に全然ついていけず、1人隅っこで小さくなっていました。PHDの授業は5人くらいの少数で数多くの論文を読んできてそれについて議論するスタイルが多いです。でも、英語の下手な僕の言うことは全然伝わらない。しかし、そこでジョナサンという友人ができ、「Akieはこういうことが言いたいんだよ」って、彼だけは僕の下手な英語を理解してくれ、通訳してくれたのです(笑)。そんなこんなで時間がかかってやっと通じるようになり、だんだん言いたいことが喋れるようになりました。博士課程の2年目の最後にはコンプという試験があり、そこでは半分近い学生が落とされることもあります。落ちると博士課程はそこで終了で、強制帰国です。でもその試験も無事に突破しました。ところが今度は、その試験を突破したのもつかの間、博士課程の3年目になると、今度私が授業をしなければいけないという制度だったのです。

 


iriyama1-4.jpg

大学生に教えるのですか?

 

そうです。1年少し前まで英語がろくに話せずに、ジョナサンに通訳してもらっていた僕が、今度はアメリカの大学の学部生に授業を教えるわけです。それは死ぬ気で練習しましたよ。たどたどしいものではありましたが、それも何とかクリアしました。

 

努力をされた留学時代ですね。

 

一方、その頃に現在の妻と知り合いました。彼女は日本の銀行の総合職だったのですが、それをやめてピッツバーグ大学の別の大学院に留学していました。そこで知り合ったのです。そして彼女は2年で修士号をとったのち、ベトナムのハノイで働いていたので、私も夏休みにハノイに行きましたが、当時は僕は貧乏な大学院生なので、完全にヒモの生活でした(笑)。実は、ヒモになるのは得意です。

 

本当ですか?(笑)面白い一面ですね。

 

午前中は、彼女が滞在しているハノイの高級ホテル付属のマンションの一室でダラッと過ごし、昼にはホテルのスクーターを借りて、職場の彼女を迎えに行き一緒にランチをして、また1人で帰ってくるという生活をしていましたから(笑)。 結局、彼女は1年でその仕事を辞め、アメリカに戻ってきてくれて、当時まだ博士課程の学生だった僕と結婚しました。そして彼女はそれまでバリバリ働いてきたのに急に専業主婦になったので、そこから彼女には苦労を掛けましたね。逆に私は、ようやくそのあたりから上手くいき始めて、博士号も取れそうな目処が立ってきたので、アメリカで就職活動を始めました。日本に帰って就職するという選択肢もあったのですが、ここまで来たらアメリカで戦いたいという気持ちがありました。

 

博士号を取られたのは何歳の頃ですか?

 

2008年12月ですから36歳ですね。博士号を取る前に就職活動は始めるので、2007年の秋に就職活動を始めました。アメリカの研究大学の博士課程は世界中から頭がいい人が受験して、ピッツバーグ大学の経営大学院の場合、博士課程の倍率は40倍ほどにもなります。40人に1人しか入学できないのです。その後の先にも言った2年目終了時のコンプという試験で、さらに同級生が半分になります。それを通過できるとかなりの人は博士号を取れるのですが、でも今度は現地での就職活動という戦いがあります。世界中からアメリカに来て博士号を取るような優秀な連中と、今度はアメリカでも数少ない研究大学(アメリカでは研究大学は約60校しかない)のポジションを争うのです。しかも60校全てが毎年新人を募集するわけではないので、せいぜい20~30のポジションを奪い合う熾烈な戦いです。本当に、やたら難しいドラクエのように、高い壁が毎回現れるんですよね(笑)。運よく私は、ニューヨーク州立大学バッファロー校でポジションを取ることができました。それがリーマンショックの前の年だったこともラッキーだったと思います。

 

大学もリーマンショックが関係するのですね。

 

アメリカはとても極端な国で、景気動向にとても左右されます。特にニューヨーク州立大学は財源がほとんどがニューヨーク州から、すなわちウォールストリートから来ているのです。ですから私が就職を決めた直後に全米を襲ったリーマンショックで一気に財政が厳しくなったので、1年後だと私の就職はとても難しかったと思います。いずれにせよ、運良く就職先も見つけた私はバッファローというニューヨーク州の田舎町に家族と移り住み、そこで二人目も子どもも生まれ、そこでの生活を始めました。

 

素敵な生活ですね。憧れます。
第2話では日本に帰国されてからのことをお聞きします。

撮影協力 本多佳子