幸せとはやりたいことや、大好きな人と両想いであること―関口 ともひろさん

関口さんとの出会いは、7年ほど前、当時経営者仲間と開催していた朝食会でした。都内のホテルで朝食ブッフェをいただきながら情報交換をするのですが、一皿目に山盛りにする私に対して、フルーツを並べただけの関口さんのお皿に釘付けになりました。「フルーツは最後ではなく最初に食べるといいのですよ」とおっしゃる姿が印象的でした。レスリング?サーカス?とても珍しいご経歴を持つ関口さんに迫ります。全3回お楽しみください。

株式会社トータル・ライフ・プロモーターズ
代表取締役
高関口ともひろ
HP:http://www.mohipilates.com/
港区南麻布にて完全紹介制Mohi Pilatesスタジオ主宰
神奈川生まれ O型 おひつじ座。1999年-2005年までフランス資本の企業にてサーカスパフォーマーとして活動し世界中を旅しながら働く。 2006年-パフォーマンス中の怪我によりリハビリから始めたピラティスで完治に至り指導者の道へ。 現在は自身のリーダーシップ理論を元に全国でピラティスの指導者を育てる育成事業を展開筋肉が人生を豊かにするテーマを掲げ自由なライフスタイルと志を共にする仲間が豊かな人生を作ることを全国で広めている。
出身は神奈川県秦野市です。秦野市は町のどこからでも富士山を見ることができる貴重な街です。子供の頃から富士山を見て育ちました。
毎日富士山を拝めるなんて素敵ですね。
高校を卒業するまで秦野市で暮らし、大学は練馬区で部活の合宿所生活を送っていました。
それは何部だったのですか?
レスリング部です。
レスリング部の方が目指すのは、やはりプロレスラーですか?
もちろんそういう方もいますが、僕は特に何かを目指すという訳ではなく、高校も大学もレスリングの推薦で入学させてもらいました。
いつからレスリングをされていたのですか?
7歳からレスリングをしていました。中学では柔道に惹かれましたが、高校では結局レスリングを選びました。
それは柔道よりもレスリングがやりたいと思われて戻ったのですか?
競技を選ぶというより、インターハイや国体で成績を残したいと思っていました。神奈川県の柔道部では県大会で優勝するまで、同じ階級が200人。レスリングは県大会で優勝するまでに同じ階級は8人、、、これはどう考えてもレスリングをやった方がいいなと思いまして(笑)
ちょうど小学生の頃、一緒にレスリングをしていた先輩が高校で活躍されていたので推薦してもらえました。
では、その高校を選ばれたのはレスリングができるからなのですね。
勉強があまり好きではありませんでしたので、レスリングを役立てて学力の高い高校に入れてもらった感じです。お陰でキャプテンをやらせてもらったり、国体で入賞できたりで大学推薦も、もらえました。思い出といえば秦野市から藤沢市まで電車で通っていましたので、今思えばかなり頑張ってましたね。5:30amにバスに乗り7:30amからの朝練に出ていました。
県内なのに2時間かかるってすごいですね。
高校も大学もレスリングをされて、就職で沖縄の宮古島に行かれたのですね?
はい、宮古島のホテルに就職しました。運動だけの毎日で進学も全て推薦でしたので学ぶことにコンプレックスがありました。
どんな仕事がいいかなんて考えたこともなかったのですが、コミュニケーションを学習すれば、人付き合いだけで生きていけるのではないかと思っていました。
コミュニケーションを学習するためにホテル業界に入られたのですか?
はい、そうです。ホテルマンになって社会人としての基本を学びたい。それを部活の監督に話したら、推薦していただきホテルに就職しました。
ところが、入ってみたら仕事は夜勤で、パソコン入力を夜通し行い人と喋ることはあまりなかったです(笑)
すべて推薦の人生ですね。
確かにそうですね。職場にこだわりは無かったので、宮古島がどこにあるかさえ知らなかったのです。沖縄本島は高校の修学旅行で行った程度、想像はしていましたが本島から300kmも離れた離島生活は、最寄りの商店まで車で30分かかり、良く言えば大変のどかな場所でした(笑)
そこに就職されて、理想とされていたコミュニケーションを学ぶことはできましたか?
ホテル業務ですから運動しかしてこなかった社会人一年生にしてみれば新しい経験を沢山させてもらえました。仕事は夜勤続きで会話はいつも夜勤の先輩一人、基本業務は、額面計算という翌日チェックアウトする人の精算資料を作る作業。ホテルの規模は250室ほどありましたが当時夜勤は大抵2人体制。1人は翌日チェックインするお客様の部屋割り、もう1人は表でお客様の応対をしながら、チェックアウトに備えての準備をしていました。
繁忙期などは忙しすぎて、お客様へのご案内以外は警備員の方と挨拶を交わす程度でした。
夜勤だとどういったタイムスケジュールなのですか?
5時~翌朝9時までの勤務です。大抵1晩働くと2日休むといったスケジュールでした。
そのお休みの時間はどう過ごされていたのですか?
まずやることを見つけるのがとても難しかったですね。
人が周りにいないというのは離島の良いところでもあり悪いところでもあります。
最初は、海もきれいですし、とても良いイメージだったのですが、マリンスポーツを目的に来たわけでは無かったので、1ヶ月で退屈になりました。それでも海は本当にきれいでした。その後世界中を回りましたが、未だに宮古島の海が一番きれいだったと思います。
宮古島にはどのくらいいらしたのですか?
1年半くらいです。その後、サーカスの空中ブランコをする仕事に就きました。
サーカスですか!?
宮古島での仕事に大きな不満は無かったのですが、このままでいいのかと思い始めました。それは、25歳から35歳くらいまでの上司や先輩方を見ていて思ったのです。少し違和感のようなものを感じていました。
のどかな島ですし、お金にも食べるものにも困りませんし、何となくその中で歳を重ねていくことに疑問が湧いていました。もっと全力で何かに向かって楽しみたい、知らない世界を見てみたいと思うようになったのです。
なるほど。それで転職を考えられたのですね。
語学力も全くないのですが、外国に行ってみたい、外国で働いてみたいという思いが湧いてきて、探し始めました。海外のホテルマンになろうと思い、探していたら、「サーカスのアシスタントの募集がある」と言われたので、応募しました。その時、募集条件がとてもユニークで「日本語が喋れて、男性で、体力に自信がある人、高いところが大丈夫な人」
すべてクリアしていましたので、応募しました。面接で「綱を登れますか?」と聞かれたのですが、レスリングの練習で10年以上毎日綱を登っていたので「得意です!」と答えました。
綱を登れる人はそうそういらっしゃいませんよね。
格闘家にとっては当たり前にやることで、綱登りできないと試合には勝てないと言われて、訓練させられていました。やりすぎて毎朝上履きが持てませんでした(笑)
ですから「どこまでも登れます」って(笑)。そうしたら、「君、ちょうどいい!語学は向こうで学んで」と即採用になり後に海外に送られたのです。「なんでも全力で頑張ると自分にとって良いことがあるのかな?」と、この時期からなんとなく感じていたのを覚えています。
どちらに行かれたのですか?
マレーシアです。クアラルンプールから飛行機で1時間ほどのジャングルの中でした。
そこにはサーカスのトレーニング設備があり「アシスタントで来ました」と言いたくても、言葉が通じない(笑)そこでいきなりタイツを渡されて、とにかく飛んできて と言われたんです。 トレーニングのサポートに来たはずなのですが、それを伝えることもできず、とりあえず言われた通りに全力でやりました。1か月程経ち、少し喋れるようになった時に、「僕はサポートで来たんですか?」という話をチーフにしたら、「いやいや、君は明日のショーから出てもらうから」と言われました。最初は演目にも出れませんから、裏方の黒子から始め、週に2回ずつ出ていました。
トレーニング期間は10週間ほどで、その後は現場に出ながら練習をしていました。できるようになれば、ショーにエントリーされるし、できなければ帰国になるものと思っていました。
ちなみにお給料は良かったのですか?
一応振り込まれてはいたようですがお給料をもらっている意識はありませんでした。
食事と部屋が付いていましたので、生活には困りませんでしたし、使う場所がジャングルなのでありません(笑)
赴任した先の外貨で振り込まれるのですが、おろし方もわかりませんし(笑)クレジットカードも持っていませんでした。 むしろ仲間にご馳走になったり毎晩勝手にお酒が出てきたりで、とにかく幸せな毎日でした。
週に2回ショーに出る生活をどのくらい続けられていたのですか?
約6年間です。
その間、どちらの国に行かれたのですか?
マレーシア、ニューカレドニア、オーストラリア、フランス(パリ)、タイ(プーケット島)、インドネシア(バリ島)です。
ではここに皆さんで行かれるのですか?
基本1人です。フランス資本の会社での個人契約なので、簡単に言うと出稼ぎのようなものです。半年1クールの契約で勤務につきます。世界中から半年の契約で集められるので、半年たつと解散です。また他のチームでやります。
その新天地は誰かが紹介してくださるのですか?
シーズンの終わりに面談があり勤務希望国を聞かれます。僕は行きたいところが特にありませんでしたので、どこでもいいですと言っていました。サーカスを極める事より知らない世界を周ることを目的にしていたので行ったことのない場所をいつも希望していました。
外国に行きたいのはなぜですか?
実は11歳の夏に、アメリカへ1か月ホームステイをした経験があります。レスリングの遠征留学でした。それが強烈に外国への憧れを植え付けました。いつか日本を出て暮らしてみたいという思いがあったのです。沖縄で働いたのも、その思いがあったからかもしれません。
ではそのホームステイが人生を変えましたね。
そうですね。それが無ければ、日本を出たいという思いは無かったかもしれません。
ありがとうございました。
(撮影協力 本多佳子)