このページを編集する

CONCEPT -Think&Talk-|学び続け、進化し続けるビジネスマンに向けて、さまざまな業界のトップリーダー たちと仕事観を語らう。

CONTACT

 2019年6月  

SunMonTueWedThuFriSat
1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30

【仕事=私事(わたくしごと)】―山本 智美さん

【第1話】人生最大のピンチは人生最大のチャンスだった
2019年06月20日
sekiguchi1-TOP.jpg
山本さんとの出会いは、9年前に参加したある会社の忘年会でした。それからその忘年会で年に一度お目にかかるものの、ご挨拶するだけだったのですが、2年ほど前に私からお声をかけさせていただいたのがきっかけです。マイナビという大会社で敏腕営業であり、そして取締役。柔和で穏やかなイメージの山本さんからどんなエネルギーが出ているのか知りたかったのです。山本さんの魅力に迫ります。全3回お楽しみください。

山本智美

株式会社マイナビ
取締役

山本 智美

HP:https://www.mynavi.jp

 

(株)マイナビ取締役 紹介事業本部長。1994年当時の毎日コミュニケーションズに 入社。大阪支社を経て1997年に東京本社へ。 就職情報事業や出版事業などでキャリアアッ プを果たした後、2002年から紹介事業本部に着任。2004年に事業責任者となり、2007年分社化・毎日キャリアバンク社長。2012年マイナビとの合併後、2016年取締役就任。

 

お生まれはどちらですか?

大阪市内です。生まれも育ちも大阪で、大学を卒業後、大阪で就職しました。社会人になり3年経った頃、異動希望を出して東京へ来て以来ずっと東京です。ですから社会人人生のほとんどは東京です。

 

高校、大学時代は何かされていたのですか?

 

高校時代はテニス、大学時代はジャズダンスに明け暮れていました。高校時代、テニスで真っ黒に日焼けしていたので、これは地黒でないことを証明しなければと思いまして、大学はインナースポーツであるジャズダンスに切り替えたのです(笑)。高校は進学校で、文武両道をモットーとした学校でしたが、入学した瞬間からテニスに明け暮れて、大学では体育会系のジャズダンスと、どちらの時代も勉強よりも部活に熱中していました。

 

ジャズダンスはどういったダンスなのですか?男女で踊るダンスですか?

 

男女で踊るのはソシアルダンスです。ジャズダンスとは、バレエの要素も入った創作ダンスで、色々な音楽に合わせて、テーマやストーリー性を持たせた「群舞」という感じでしょうか。先生は外部からお月謝を払って来てもらっていました。当時、2030代で、とてもお若かった先生方でしたが、ダンス教室を経営されていて、私たちの大学には出張で教えに来てくださっていたんです。創作ダンスを得意とされていて、私たちの憧れでした。私たちのクラブは体育会系ですが、大学の中で一番の花形で、50人を超える部員を抱え、年に数回は舞台での上演がありました。女性ばかりの大きな組織で、3年生の時には部長を務め、今思えば組織のマネジメントの面でもなかなか鍛えられました。

 

そして新卒で今のマイナビさんに入られたのですね。

 

そうです。1994年、ちょうど超就職難の時代だったのですが、新卒でマイナビ、当時の毎日コミュニケーションズに入りました。当社は、私の入社翌年、1995年に初めて新卒採用がゼロとなったのですが、私の同期もわずか11人でした。

 

マイナビさんに入社されたきっかけ、決め手は何だったのですか?

 

まさに不況の底をつく時代だったにもかかわらず、私はマスコミしか興味がなく、応募したのは数社だけという強気な就職活動だったんです(笑)。その中で当社に入社したというのはご縁、率直な言い方をすると、たまたま内定をいただけたということになりますね。でも業種としてはマスコミ、職種としては編集職に強い憧れがありました。もう少し自分の背景を振り返ると、学生時代から「手に職」というイメージの専門職に惹かれていました。洋裁が好きだったというのもあるかもしれません。ですから、出版社としての当社に期待して入社したんです。ところが、当時は新卒の社員のほとんどが、新卒採用媒体「マイナビ」を営業する部署に配属されました。新卒採用のためのコンサルティング営業をする営業職として、キャリアのスタートを切ったわけです。「編集者になりたかったな……」という思いを胸に抱えつつ……(笑)

 

yamamoto1-2.jpg

ご兄弟はいらっしゃいますか?どんなご家庭でしたか?

 

2歳下に弟がいます。父母の役割分担があったのか、あまり口を出さない見守り型の父に対して、専業主婦の母は過保護でとにかく心配性でした。母は女性が男性と同等にハードワークをすることに、あまり良い顔をしませんでした。

 

時代的にそれが一般的だったのではないですか?

 

そうだったのでしょうね。母は、時折パートなどに出てみたりすると、人への気遣いでとても疲れて帰ってくるデリケートなタイプでした。ですから私にも、「女の子はそんなに頑張って仕事をしなくてもいいんじゃない?」とよく言っていました。

 

では就職には反対されたのですか?

 

反対はされませんでした。幼い頃から自分のことは自分で決めていたので、就職後、大阪支社に勤務していた3年間は実家から通勤していましたが、遅い時間に帰宅する姿を見ながら、身体を壊さないかと心配していましたね。実家にいるととても楽でしたが、東京へ出て親元を離れてから、自由奔放に、母の心配する顔を気にせず仕事ができるようになったという面はあります。

 

小さい頃はどんなお子さんでしたか?

 

小学生の頃の私は、クラスのリーダー的存在だったようです。私としてはそんなつもりは無かったと思うのですが、当時の担任の先生が母に、「智美さんの影響力はとても大きい。だからクラスメイトのロールモデルとなるよう頑張ってほしい」と話していた、ということを後々聞きました。それで母は「お友達は大事」「人を大切に」と、私に繰り返し言っていたのですが、子ども心に何でそこまで何度も言うのだろうと不思議でした。私はいじめっ子でもいじめられっ子でもなく普通なのに……と。今思えば、自覚なしにかなり仕切っていたのでしょうね(笑)。先生からそれを聞いて、母が気にかけていたのだと思います。

 

自覚がないって素晴らしいですね。

 

例えば登校すると、友達が校門の前で待ってくれていて、手を振って迎えてくれたりしてました(笑)


yamamoto1-3.jpg

めちゃくちゃボスじゃないですか(笑)

 

それを楽しみながらやってくれる友達がいただけなのです。これも自覚はなかったのですが、当時から私は気が強く、意志を曲げないところがあったのでしょう。いわゆるリーダー的な存在として、先生の目にも止まっていたのだと思います。だから、母と担任の先生が私の知らないところで情報交換をして“握り合って”いたのでしょうね(笑)

私は元々左利きだったんです。でも小学生の時、母にお箸と鉛筆は右に修正されました。今も包丁とはさみと針は左のままなので両利きです。丁寧に、熱心に右手の使い方を教えてくれる母を見て、子どもながら母の自分への思いの強さをヒシヒシと感じていました。とてもお母さん子でしたね。

 

こんな家訓があったとか、おうちならではの決まりごとはありましたか?

 

仕事が忙しかった父は放任でしたし、母にも勉強しなさいと言われた記憶がありません。母は過保護で心配症で「どうなの?こうなの?」というヒアリングは多かったのですが、逆に「あれしなさい、これしなさい」というコントロールはなく、やりたいことをやらせてもらっていました。習い事も私がやりたいことをさせてもらいました。

 

何を習われていたのですか?

 

ピアノ、そろばん、お習字などいろいろやりました。全部自分の意思で習い始め、そしてどれも長く続きました。

 

何が一番お好きでしたか?

 

全部好きで、長く続けていたのですが、高校受験の手前で、お稽古ごとが重くなってきて辞めてしまったんです。もったいないですね。特にピアノは4歳から習ってましたし、それだけは続けておけばよかったなあと今となっては思いますね。

 

子どもの時になりたかった職業はありましたか?

 

当時はスチュワーデスに憧れていました。後々も華やかな世界のプロフェッショナルたち、ダンサーや指揮者など音楽系、芸術系にも憧れがありました。

 

音楽の道に憧れると、ピアノを続けていれば……と思われるかもしれませんね。

 

プロになれる腕ではないことは自覚していたのですが、当時のピアノの先生がとてもチャーミングな大学生で、「私は智美さんのピアノが好きよ」と私が弾いている音色に共感してくださったんです。音楽で感性が通じ合うことが、とても嬉しかったのを覚えています。

 

素敵です。最高の誉め言葉ですね。私もジャズを聴くのが好きで、憧れてサックスを習ったことがあるのですがすぐに挫折したので、音楽ができる人生はいいなあと思います。

 

音楽は続けていると人生が変わりますよね。続けていれば、息子に教えてあげることができたのにと思うことはあります。もう手が動きませんから。少しの後悔です。

 

現在は人材紹介の部門を率いておられますよね?この仕事に就いたきっかけは?

 

入社して営業をし、その後、憧れの出版編集部門での仕事も1年間ですが経験できました。夢がかなったのですが、20028月に会社が出版事業の大リストラを決めたのです。折しも急激な出版不況が到来し、今後出版事業は厳しいと、出版事業部門にいる営業系社員は他部門の営業にバラバラに配置転換されました。結果、私は希望していなかった新設の人材紹介部門に配属になったんです。ちょうど当社の現社長が就任したタイミングです。当社としても新社長による新しい時代が始まろうか、という時でした。

対面型の人材紹介も、新社長のもと新たに立ち上げられた事業でした。当社は業界では後発参入だったのですが、そこにいきなり放り込まれた格好ですね。

 

ではマイナビの中でこの事業の先駆けなのですね。

 

はい、ほぼゼロからの立ち上げです。管理職男性4人くらいの中に1人入れられて、「これは私に辞めろということなのだろうか」と悩みました。人生最大のピンチでした。


yamamoto1-4.jpg

職種は営業だったのですか?

 

当時のキャリアを申し上げると、大阪と東京で通算6年間、新卒採用マーケットでコンサルティング営業をし、出版事業部門には3年在籍して、うち2年営業を担当、という状況です。そして人材紹介事業の立ち上げに加わったわけですが、その1年半後、20044月には、人材紹介事業の責任者を拝命することになりました。以来、今に至るので実は、中間管理職を経験することなく、責任者になっているのです。当時のメンバーは10人程揃ってきたかどうかというところ。現在は従業員数1100人を超えています。この16年間、ひたすら規模拡大がミッションだと思って邁進してきました。

 

素晴らしい成長ですね。

 

入社当時、新卒向けの就職情報メディアは紙の媒体が中心で、重たい見本誌を何冊も抱えながらの営業は女性にとっては大変な肉体労働でした。同僚の女性たちは、ほぼ23年で他部署への異動を希望していました。私も「売れるだけ売った。だから東京で出版の仕事をさせてほしい」と必死で異動希望の申告を出しました。東京には異動できましたが、それでも引き続き新卒採用の営業でそれを3年続けて、ようやく出版事業部門に異動がかないました。ここまでは紆余曲折あれど、自分の希望通りに異動してきたんです。ですからその後の人材紹介部門への異動は、泣く泣く受け入れざるを得ないものでした。何しろ出版事業で「目指せ!編集長!」と思っていたのですから。ただ、振り返れば「人生最大のピンチ」だと思ったあの出来事が「人生最大のチャンス」だったのだ、ということを思います。

 

10人から1100人超への急成長ですものね。チャンスを確実につかまれた、ということですね。

 

現在では、社内でトップ4の大きな事業部に成長しました。売上・利益においても、これからのマイナビを支える存在になっています。もちろん立ち上げ期は大赤字でした。2007年には、まだ黒字化が見えない状況なのに分社化して「毎日キャリアバンク」という子会社になったのです。私が社長です。責任者を拝命してわずか3年という状況で「この赤字で分社化なんて時期尚早です。ありえません」と2回もお断りしたのですが、数か月後には登記簿に載っていました(笑)。

もうそうなると、走るしかありません。偶然、同じ年に結婚をしました。結婚は会社の代表になる前に決めていたことだったのですが、「結婚するから社長はできません」とも言えず……。楽しい新婚生活と、会社の代表としての厳しい生活、二種類の新生活が同時にスタートする、という特異な経験をしました。

 

撮影協力 本多佳子