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CONCEPT -Think&Talk-|学び続け、進化し続けるビジネスマンに向けて、さまざまな業界のトップリーダー たちと仕事観を語らう。

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人の心と身体の間を見続けたい―穂積桜さん

【第1話】「ナウシカのような女性になりたい」
2019年03月14日
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穂積さんとの出会いは、6年ほど前、女性のお客様からのご紹介でした。とても親しみ深く、初対面にもかかわらず、ずっと昔からの知り合いのように感じ、年下の営業マンである私が最初からタメグチだった唯一の女性です。今回、精神科医のこと、産業医のこと、憧れの世界旅行、プライベートなどたくさんお聞きすることができました。素敵な笑顔と、それでいてニヒルな一面もあわせ持つ穂積さんの魅力に迫ります。全3回お楽しみください。

穂積桜

日本医師会認定産業医
精神科専門医 漢方専門医 臨床心理士

産業医 穂積 桜さん

 

2001年 札幌医科大学医学部卒業 札幌医科大学医学部附属病院神経精神科 東京都立松沢病院 久喜すずのき病院において精神科医として研鑽を積む。
国立病院機構東京医療センター、北里東洋医学総合研究所において、内科、東洋医学の知識を幅広く習得 2014年より、精神科、内科の臨床経験に基づく知識のみならず、人事労務、法律の知識を併せ持つプロフェッショナル産業医として稼働 現在16社を担当する。

 
お生まれとご家族について教えてください。

東京出身です。父は高校卒で、母は短大卒で、私が医者になるまで親族に医者は全くいませんでした。

父は私が10歳くらいになるまで、発電機の会社に勤めていました。インドネシアやアルジェリアに技術支援に行ったり、高卒でしたがそれなりに活躍していたようでした。それが、私が10歳の頃に、突然脱サラして自転車屋をはじめました。 今思えば、父のとても自由な感じの生き方が、私の多動な生き方に影響しているかもしれないですね。



お父様は、突然脱サラをされたのですか?

突然「お父さんは手を動かす仕事がしたい」と言い出して、脱サラして自転車店に修行に行き、その後自分の自転車屋を始めました。



自転車がお好きだったのでしょうか?

元々、自動車の修理工の免許を持っていて、それがとても楽しかったようです。そういう修理の仕事がしたかったようです。



お母様は反対されませんでしたか?

反対しませんでしたね。



穂積さん、中学は公立ですか?

実は私は全部受験しています。



小学校受験から?

はい。私は覚えていないのですが、私立の小学校を受験したらしいのですが落ちました。その後、公立の小学校に入ったのですが、そこが学級崩壊して、4年の時に私立の学校に転校しました。そして、中学も、高校も、大学も受験しました。



すごいですね。受験してすべて別の学校に行かれたのですか?

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はい。転校先の私立の小学校、小学校自体はよかったのですが、その上の中学校は私とは合わないと思い中学受験を決めました。

入った中学はとてもバブリーな中学でした。時代がバブルの最後だったからかもしれませんが、友人の多くがブランドのお財布や鞄を持っていて驚きました。当時ハンティングワールドが流行っていて、中学生が当たり前のように持っていましたね。私は、ハンティングワールドの鞄がどのくらい高いのかを知らなかったのですが、ある日その鞄が新宿の小田急のショーウィンドウに置いてあるのを見たのです。そしたら、30万円近かったんですね。「ゼロが数えられない…。」と衝撃を受けたのを覚えています。ここに居て、染まりきれる自信もない。かといって流されない自信もないなと思い、高校も受験することにしました。



その中学は中高一貫校だったのですか?

はい、大学までありましたが、進学せず高校受験しました。しかし入学した高校が受験よりもキリスト教に熱心な学校で、しかも文系の学校でしたので、医学部に行く人はごく少数でした。



ちなみにいつ医者になりたいと思われたのですか?

最初に医者になりたいと思ったのは、小学4年生です。風の谷のナウシカを見たことがきっかけです。あの映画は小学生の私にとってとても印象的な映画でした。

当時「女性は男性の添え物」という風潮を子どもながらに感じていました。ナウシカを見たときに、「女の子でも戦えるんだ〜」と思ったのです。「ナウシカのような格好いい人になりたい」と思いました。映画の中で、ナウシカが腐海の毒で病気になった人を、植物を育てて、その植物で治療しようとする場面があり、それが医師を目指した原点かもしれません。

とはいえ、それは小学生の妄想のようなもので、ちゃんと意識したのは高校生の頃です。



穂積さん、漢方の専門医もとられていますから、薬草を育てて治すナウシカと通じるところがありますね。
医者になるために学校を選んだと言うよりは、その時点で行きたい学校を選ばれたのですか?

そうです。真剣に考え出したのは高校に入ってからです。まあ、真剣にといっても少し消去法的なところがありました。「女の子はお茶汲みの仕事をして適当な年齢で結婚」というキャリアパスがまだまだ残っていた時代でしたから、女に生まれた時点で人生もう負けたも同然だと小さい頃から思っていたのです。

ですから、お茶くみと無縁な仕事をしたいという思いがあり、消去法的に医者という選択肢がでてきたのです。そして北海道立札幌医科大学を受験しました。 東京の国公立には力及ばずで、「近くの田舎より遠くの都会!」という自作の標語の元、大学を探し、この大学を選びました。



大学のいつの時点で専門を決められたのですか?

それはよく聞かれる質問なのですが、当時は医学部6年生の夏以降に専門を決めることになっていました。私もその頃に精神科に決めました。



なぜ精神科を選ばれたのですか?

心と身体の中間に興味があったのです。例えば、ストレスで胃潰瘍になることがありますが、その胃潰瘍を治すにはどうしたらいいのかということに興味がありました。

今も多くはそうですが、当時も治療には胃薬が処方されます。でもそれは根本的な解決ではないです。ストレスで便秘になった人を便秘薬だけで治すのか、より根本的なところに手を伸ばしたいのかを考えたときに、私はより根本的な解決を目指したいと思ったのです。内科医と精神科医とどちらにしようか悩んだのですが、内科の医師があまりに忙しそうで、自分の思いを初志貫徹できないのではないかと思い精神科を選びました。



精神科はそれほどお忙しくなかったのですか?

はい、昼休みに医局で囲碁を打っていたり、とても暇そうに見えたのですよ(笑)。実は暇ではないことを後から知りましたが。。。これなら、自分のやりたいことを見失わず、初志貫徹できるかなと思いました。

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私の勝手なイメージですが、精神科のお医者様の方が、バンバン薬を出して根本的に解決してくれないような印象があるのですがいかがですか?

結局精神科医になってみるとそうでした。当時私は何も知らなくて精神科に進んだのですが、蓋を開けてみたら、5分に1人のスピードで患者さんを診るので、薬の処方以外の関わりが殆ど出来ませんでした。そこに疑問を感じて、臨床心理士の資格を取り、キャリアに補足をしました。



精神科に決められた後、どちらで働かれたのですか?

大学を卒業した後5月から精神科に配属されました。1年目は札幌、翌年は夕張市の隣の三笠市という昔炭鉱だった町に転勤しました。当時は卒後専門科にすぐ進む仕組みだったのですが、内科や救命救急などの勉強もしたいと思い、自分で探して、医者3年目から東京の病院に2年間、研修に行きました。そこで総合内科と救命救急のトレーニングをしました。



これは普通のことなのですか?

当時は珍しかったです。

卒後すぐに専門科に進むと、専門以外のことはわからなくなる。それはよくないということになり、平成16年(2004年)からは卒後2年間の臨床研修が必修化されました。2年間は様々な科を周って研修してから専門科に進むようになっています。



それが研修医なのですね。

はい。その後5年目から精神科に戻り、10年目まで精神科医として地域の拠点病院で働きました。10年目に「本当によく働いたな」と半ば燃え尽き、1年間休むことを決めたのです。



「よく働いたな」とおっしゃいましたが、その当時どんなスケジュールだったのですか?

月に7~8回当直をしていました。9時に出勤して17時くらいまで日勤し、そのまま当直が始まり、さらに翌日の9時から17時まで日勤をします。夜勤明けの休みはありませんでした。ですから、連続32時間勤務なのです。この当直が平日の業務に加えて月7~8回入ってくるのです。



え~。本当ですか?それはハードですね。

夜中は何もなければ眠れますが、そんな夜ばかりとは限りませんので、大抵仮眠くらいでした。この生活は研修医の頃から8年ほど続けました。時間も拘束されますが、地域の中核病院で勤務していましたので、受け持つ患者さんのケースも重いものが多くなっていました。周りのどこの病院も受け入れ困難な重症の患者さんが集まるので、いろいろなことがありました。赴任した日に椅子を投げられたり、当直中の夜中に喫煙を注意しに行ったら、見ず知らずの患者さんから平手打ちされたりもしました。朝まで当直室で「悔しい~」とのたうちまわったこともあります(笑)



差し支えなければ、重いケースとは、どういう患者さんがいらっしゃるのですか?

病気によりますが、例えばうつの患者さんが入院する場合は落ち込みだけではなく、死にたいという強い願いや、激しい妄想が出ていることがよくあります。例えば「自分が家の修理を数日先延ばしにしていたせいで裏山が崩れて家が潰れる。そして全くお金がなくなって明日から家族が全員路頭に迷う」と確信されていたりします。重症な方というのは実際には裕福かどうかは関係なく、こういった妄想が出ます。

あとは、うつの患者さんとは別の妄想の世界で生きる方もいて、これは医者一年目の時の話ですが、病棟を歩いていたら患者さんに「君、メーテルだよね?」と話しかけられたこともあります。



そういうときは何と答えるのですか?

「そうだったかなア?」と答えました。妄想に加担して妄想を広げず、かといって妄想というのは患者さんにとっての真実であり現実なので、否定はしない。否定をすると心を閉ざされてしまいますから。

「シー」って口を押さえて小さな声で、「今、僕は富士山の噴火を止めているから大きな声を出さないで」って訴える患者さんもいました。

そんなときは、「それは毎日緊張の連続でしょうね。少し病院で休んでいきましょうか。お布団用意するから泊まっていって」と言って入院を薦めます。

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精神科に受診される方はご自身の状況を理解していらっしゃるのですか?

重症の状態の時ほど理解していないことが多いです。



そういう場合、どういった治療方法になるのですか?

今挙げたようなケースは、投薬治療が有効です。よく眠って、薬を飲むことで、良くなります。しかし再発も多い。ですから、ご家族などが早めにその変化をキャッチして、病院に来てもらえるような関係を築いていくのが大事です。



人間関係構築力が必要ですね。

そうですね。困ったら思い出してもらえる存在でありたいです。



反対に女性として見られて「先生に会いたくて来ました~」というようなことはないのですか?

多くはないですが、そういうこともありましたね。診察の時は看護師さんがついているので、声を出して直接誘うのはまずいと思ったのか、自分の携帯に「どこどこのお寿司屋さんで何時に待っています」というのを打って、画面をこちらに向けて持っていたりとか(笑)、極少数ですがそんなこともありましたね。

医療現場というのは女性が多い職場ですので、女性らしさを前面に出した女医さんがスタッフから反感を買う例を少なからず見てきました。そうなると仕事しにくいですね。

それと性別の話とは離れますが、精神科医としての矜持も関係しています。医師も転勤や突然の病気などの理由で現在の患者さんの担当から外れることは起こりえます。いつ自分の患者さんを他の医師に担当してもらっても大丈夫な関係であるべき、と教育されました。ですから、特別な肩入れをせず、治療的な距離感を常に心がけていました。そのスタンスですので、患者さんからお誘いを受けると言うことはあまりありませんでした。



確かにそうですね。ありがとうございます。
次回は、人生を変えた穂積さんの旅のお話をお聞かせください。

(撮影協力 本多佳子)