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CONCEPT -Think&Talk-|学び続け、進化し続けるビジネスマンに向けて、さまざまな業界のトップリーダー たちと仕事観を語らう。

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目の前の人を喜ばせることに情熱をかたむけた人生―小成富貴子さん

【第2話】業界で私が素人であることが私の一番の強み
2018年10月11日

成功の影には、自分だったらどうしてほしいかという顧客側の目線に立った数々のアイデアがありました。
成功と挫折、その先に得たもの。小成さんのお人柄が見える第2話、お楽しみください。

 
小成富貴子

有限会社ミネルバカンパニー
代表取締役

小成富貴子さん

-Profile-


1989年上智大学外国語学部イスパニア語学科卒
大学在学中1年間マドリッド自治大学外国人コースに留学。大学卒業後23歳で結婚。22年間、家事、家業、子育てと家族のために尽くす。
2011年日本で唯一スペイン商材に特化した輸入セレクトショップ「アイレ」を表参道に開店。2017年に実店舗は閉店。現在はオンラインストアのみ継続中。
スペイン文化を日本に紹介する一方、着物や和食など、日本文化をスペインに広める活動にも力を注ぐ。
また、二人の息子たちのユニークな子育て法が話題となり、2017年3月19日に初の著書『究極の育て方』を出版。
現在、クリニック経営、眼鏡店経営、スペイン商材輸入、セレクトショップ運営、スペイン料理講師、スペインワイン講師、グローバル教育講師など多方面で活躍中。ミッフィーの愛称で親しまれる。

著書:KKベストセラーズ
「イェール+東大、国立医学部に2人息子を合格させた母が考える 究極の育て方」
共著:誠文堂新光社
「バスク料理大全」

 

#1 一枚のチラシから変わり始めた人生
#2 業界で私が素人であることが私の一番の強み
#3 これからは女性のアレンジ能力が求められる時代

ご次男について、本人がやる気になるのを待つとおっしゃいましたが、本人はなぜやる気になられたのですか?

高校卒業が大きなきっかけとなり、初めて自分の将来について真剣に考えるようになったようです。そしてこのままではいけない、これからどうすべきだろうかと自分自身にきちんと向き合ったのでしょうね。

では、ご自身で考えて、結論づけたのですか?それともキーマンがいらしたとか?

彼の場合は自分自身でそこまでたどり着きました。今でこそ6年生になり、父と同じ眼科医になりたいと言っていますが、「眼科医になりなさい」とは一切言ったことはありません。好きなものになればいいと思っていましたから、内科がいいと思っていた時期もあったようです。

小成さんのお仕事のご経歴は?

31歳の時に主人と一緒に眼科クリニックを開業しました。準備期間は半年ほどでしたが、主人は病院勤務でしたので、私が設計事務所や医療機器会社と打ち合わせをしたり、何が必要なのかを考えたりしました。看板やロゴマーク、電話帳などの広告関連から、電話やコピー機などの事務関連、スタッフ募集や面接など、初めてでわからないことだらけでしたが、何から何まで一手に引き受けました。
クリニックを開業した翌年に眼鏡とコンタクトレンズの販売会社を起業し、代表取締役になりました。町田は競合施設も多く、経営が軌道にのるまでには5年以上かかりました。もっと眼科を発展させたいと常に私は事業の拡大化を計画していました。
13年ほど突っ走ってきたある日「次はこういうプロジェクトをやってもっと増収したいのだけどどうかしら」と主人に新たな企画を提案しました。ところが主人は「僕は十分働いているし、ずっと思い描いていた夢もかなったから、今のままで十分だよ」と。愕然としました。そうなると、私の任務はこの状態を維持するだけ。やりがいを感じることがなくなってしまいそうで気落ちしました。
その頃私は44歳。ちょうど長男も成人し、子育てもひと段落しつつありました。すると主人が「子ども達も成人するし、クリニックの経営も続けながら、何か好きなことに挑戦してみれば?」と言ってくれたのです。ありがたい提案でした。
そこで、クリニックと眼鏡の会社以外で働いたことがない私に何ができるのだろう、自分にはどんな可能性があるのだろうかと色々考えました。「お茶の資格を生かして茶道教授になろうかしら」「二級建築士の資格を生かして建築事務所で働いてみるのもいいな」「人にものを教えるのも好きだから、簿記を教えてみようかな」などなど。色々思いめぐらせている中で、ふと20年間スペインに行っていないということを思い出したのです。気付いたら矢も盾もたまらず、35日の弾丸旅行でスペインに飛びました。

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一人旅ですか?どちらに行かれたのですか?

はい、一人旅です。行き先はかつて留学していたマドリッドです。街を散策する私の頬を撫でる乾いた風、食堂の排気口から吹き出してくる咽せかえるようなオリーブオイルの匂い、テラスで語り合うおじさん達が燻らせる葉巻の香り、飛び交うスペイン語。全てが懐かしくて涙が止まりませんでした。ここは、かつて好きな人がいた土地であり、楽しかったこと、辛かったこと、苦しかったこと、自分自身を生きていたという思いがどんどん戻ってきて「スペインは私の第二の故郷だ」と実感したのです。そのことを20年も忘れていたなんて。急に自分自身を取り戻したような気がしました。そして、どうせ新たなスタートを切るのなら、スペインに行ける仕事にしようと決めました。
最初に思いついたのは「食品を輸入して売る」ことでした。ところが、私が思いつく商品は、そのちょっと前にすでにどれも日本に入っていました。他に何かないだろうかと街を歩いていて出会ったのが「UNO de 50」というブランドのアクセサリーでした。なんとか交渉に成功し、日本で初めて輸入販売の許可を頂きました。当初は町田の眼鏡屋の片隅で売ろうと思っていました。でも届いた商品を見て、こんなところで売っている場合じゃない、都心にきちんとしたお店が欲しいと思い、不動産屋に飛び込みました。表参道の路地裏に手頃な小さい物件を発見。20111111日に契約し、1210日にオープンしました。私は猪突猛進なところがあるのです。
アクセサリーから始まり、洋服、鞄、土産物など、どんどんアイテム数が増え、大量の在庫を抱えるようになりました。残念ながら、スペインのド派手で存在感に溢れるシルバーのアクセサリーは、繊細でゴールドを好む日本女性には馴染まなかったようです。自分なりに道を模索しましたが、なかなか思うようにいかず、53か月でこのお店は畳みました。

お店を畳まれるときはどんなお気持ちだったのですか?

本当は軌道に乗らなければ、3年で辞めるというのが主人との約束でした。でも、3年たったタイミングで私自身に3つの変化がありました。1つはスペインのバスク料理についての本の執筆に関わるようになったこと。2つ目は美食の街として着目され始めたバスク地方を巡るツアーを企画してくれないかという依頼。3つ目はバスク料理の講師をやってみないかというお誘いです。不思議なくらい、突然バスクについてのお仕事が次々とやってきました。小成富貴子とは何者なのかという肩書も必要でしたし、このタイミングでお店をやめるわけにはいかなかったのです。ですから、あと2年やらせてほしいと主人にお願いをしました。借金は膨らみましたが、この決断が良かったのです。なぜなら、テレビ出演のお話も、出版社の方も、お店に直接訪ねてきてくださったのです。ですから、あの時、辞めなくてよかったと思っています。
お店の経営は大変でした。一番苦労したのは人の問題です。そんなに儲かっていないのに、経費の支払いはたくさんあるのも苦しかったです。5年経った頃「スペイン業界の母」と言われるようになり、料理の世界においても、スペイン業界の中での私の立ち位置が定まってきました。「スペイン業界大好きな人忘年会」という会で表彰状をいただいたのですが、そこには「文化発信の部 ミッフィー殿 あなたは今年もスペイン文化について発信し その魅力を伝えました」と書いてありました。その中のどこにも「物を売って」とは書いてなかったのです。「お店を辞めても、スペイン業界において私の存在は認められるようになったのかしら?」と表彰してくださった方にお聞きすると「もうミッフィーに関しては物販しているかどうかなんて関係ないですよ」と言われました。この一言が私の背中をポンと押してくれました。私にとってのお店の役割は終わったんだと感じました。

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お店を畳んだことでいい方向に向かわれたのですね。

そうですね。畳んだことで一番良かったのは資金繰りです。その悩みから解放されました。スペイン輸入雑貨販売という肩書きは必要なくなりましたが、今後スペイン業界でどういう存在になれるのかを考えることはこれからの課題の一つです。

眼科の成功のポイントは何ですか?

他院との差別化を図るために何ができるかを考えられたことが大きなポイントだと思います。今現在もですが、町田はターミナル駅のため、とても競合施設が多いのです。その中で他とは違う特徴を出していかなければなりません。
当院の一番の特徴は医師である主人の手術の腕の良さです。主人はもともと器用な上に、真面目に研鑽を積んできました。彼は人生の中で一万件以上手術をしてきましたが、「明らかに彼の失敗」という手術はゼロです。その素晴らしい腕をいかに有効に活用するかを考えることが私の仕事でした。手術に特化して、「白内障手術といえば、こなり眼科」と言われるようになりたいと思ってきました。
もう一つはサービス業としての意識を高く持つようにしたことです。開業した20年前は、怒ったり威張ったりしている先生が多く、患者様が先生に従うというスタイルが主流でした。そこで、患者様が気持ち良く安心して過ごせるクリニックを目指しました。医療はサービス業だという視点を持つことができたのは、この業界において私が素人であるということが、一番の強みだったのかもしれません。例えば、私が流産した時、医師である主人は「育たない命だから仕方がないことだ」と言うわけです。それは事実であり、もしかすると彼なりの優しさなのかもしれませんが、その発言には何の同情も感じられない。必要な医療行為を淡々と行っていく医師に、患者様の気持ちに寄り添うという対応が加わったら、大きな差別化が図れるのではないかと考えたのです。

20年前にその発想はかなり進んでいますね?

今ではホスピタリティは当たり前のことですが、当時はとても新しい考え方だったと思います。そして私がホスピタリティに向いていたのでしょうね。私は非常にこだわりが強い人間ですので、自分がされたら嬉しいことを取り入れました。
その一つが手術室に窓を作り、ご家族に手術の様子をご覧いただけるように工夫したことです。そして、手術の内容がわかりやすいように、実況生中継のような解説を始めました。
また、夕方になると「その後調子はいかがですか?」と院長が全員に電話をしています。また、院長の携帯電話番号をパウチしたカードを用意し、術後1週間「不安な時はいつでもお電話ください」とお渡ししています。
手術前の説明会ももちろんですが、術後の説明会も開催し、その都度わかりやすいパンフレットや注意書きも作っています。

それはものすごく嬉しいですね。安心です。

院内に新聞があるのをご覧になりましたか?2005年刊行なので12年間発行しています。季刊で、年4回発行し、今は55号まで出ております。インターネットでも見ることができます。何事も始めるのは簡単ですが、継続することは難しいですよね。ですから、長く続けるということを意識して誌面作りをしています。難しい医療のことではなく、とっつき易い内容になるよう工夫しているのです。院長の面白おかしいエッセイ、目の慣用句、子ども向けクイズ、患者様自身にもご参加いただける「手術体験記」や「趣味のコーナー」、健康に関する看護師のコラムや目に関する視能訓練士の記事など、いろいろなシリーズを考えて連載しています。

12年続けるというのはすごいことですね。

他でやっていないサービスを細かくしっかりやったことが他院との差別化につながったと思います。
他院よりもより親切で、より分かりやすく、顧客に寄り添ったものを提供できるようにいつも心がけています。手術の日は着替えていただいてから、手術室に呼ばれるまでの間、看護師が体温や血圧を測るのですが、私はその横で患者様とお話をしてくつろいでいただくようにしていました。事前の検査の時に看護師がご趣味を伺い、そのメモを見ながら話しかけます。例えば趣味が読書の方には、「最近読んだ本は何ですか?どういったジャンルがお好きですか?」などとお話をして、10分間で心を和ませるようにしています。患者様だけではなく、一緒にいらっしゃったご家族とも会話をして、「どうぞ手術をご覧になってください」と小窓にご案内する。これを一日13人、声がかれるほどやっていました。でもそのおかげで皆様の名前をしっかり覚えることができました。
そして翌日は眼帯を外すため、朝一番に皆様来院されます。待合室で「〇〇さま、おはようございます。お加減いかがですか?」とカルテも何も見ないで名前で話しかけることができるので、皆さん驚かれます。

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これはスタッフの方もできるのですか?

はい、スタッフも同じように対応できます。

すごいですね。私はスタッフになれそうにありません(笑)。
小成さんご自身はどういうお子さんでしたか?どう育てられましたか?

3歳の時に神奈川県に引っ越してきて、1年でまた町田へ引っ越してと、幼少期、友達があまりできませんでした。私は引っ込み思案で自分から話しかけたりすることはなく、人が苦手と感じている子どもでした。
母は愛の塊みたいな人で何でもほめてくれる人でした。学校で習ってきたことを家で披露すると、「まあ、すごいわね。お母さま知らなかったわ~」と言ってくれました。今でもそうですが「まあ、今日は髪の毛がきれいにできているわね」とか「やっぱりあなたは着物が似合うわね」と50歳を過ぎた娘に言ってくれます。ちょっとしたことを何でもほめてくれる人です。それが自分に自信のない私にとって唯一の励みでした。

小さいころなりたかった職業は何ですか?

私は、なぜか可愛いおばあちゃんになることに憧れていました。

それはかないそうですね。
その夢は今でも変わっていないですか?

今は目指してないかな(笑)。これはケーキ屋さんになりたかったのと同じような感じです。なぜか可愛いおばあちゃんだったのです。

なるほど。その夢と今との共通点はありますか?

そうですね。家族に愛されるという点では共通しているように思います。家族を大切にしたいですし、大切にされたいと思います。

一番の失敗談はありますか?

一番の失敗は次男に中学受験をさせたことです。あれで彼は波乱万丈の人生を歩むことになり、大きく回り道をすることになりました。あれは私のエゴだったなと思います。大きな失敗ですね。

その失敗を経ての今があるということですね。小成さんご自身の強みは何ですか?

とにかく人とすぐに仲良くなれることと、ポジティブなことです。
何かが起こっても、これには何か理由があって神様が与えた試練だと考えます。塞翁が馬という言葉が好きですね。

(撮影協力 本多佳子)

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